1、部分と全体の関係を通じて美を達成すること
1.1Vitrivius
建築は、ギリシア語でタクシスといわれるオールディナーティオー[オーダー]……から成り立っている。オールディナーティオーとは、ディテールを個別的に整えていくことであり、全体としては均整のとれたものとなるように比例的な整理を行うことである。
アリストテレスの「タクシス〔taxis〕」という概念に由来
1.2 Aristotle 『形而上学』 『詩学』第七章
「美の主たる形相は{秩序|オーダー}、{均斉|シンメトリー}と限定された大きさによるものであり、これらは数学的な科学がとくに強く表しているものである」
「生物であれ、いくつかの部分から組みたてられているどのようなものであれ、美しいものは、これらの部分を秩序正しく配列していなければならないばかりでなく、その大きさも任意のものであってはならない。というのも、美とは大きさと秩序にあるからだ」。
1.3 建築は何に秩序を与えるのか、何に由来するのか
物質なのか?空間なのか?流れか?知覚か?それとも社会的関係なのか?秩序が何に存しているのかが言いえて始めて秩序の概要を作ることができる
もしわれわれが建築に「{秩序|オーダー}」を見いだすとすればまず抽象として認識したものを改めて物として再構成し直すこと
精神・
数学
自然 カトルメール・ド・カンシ-
結晶と鉱物組成 ジョン・ラスキン
動植物の成長パターンダルシー・トンプソン
1945年以後 オーダーへの関心は知覚心理学、人工世界の秩序において鍵となる人間の知覚研究へと移行
2、社会階級 序列 の表現
2.1decorum ふさわしさ
Vitrivius 『建築書』第五章第六書
「それ故この方式に従ってそれぞれの種類の人たちに対し、……建物が配置されるならば、批難されるようなことは一つも起こらないであろう」
2.2 Wotton, Hの『建築の原理』(一六二四)
「それぞれの人物にふさわしい大邸宅・住宅は主人の階級に応じてふさわしくまた魅力的に装飾されるに値する」
「デコールム」がこれだけ敏感な問題となったのは、十六世紀の住宅建築の奢侈を巡って展開した社会的言説が原因である。一方で財産を持つ者(とりわけ政治的な職務を占める場合には)は贅沢に建設する義務があると考えられた。他方で、壮麗な建物は社会的地位の低い人々の妬みを掻き立てる。彼らの上流階級の奢侈を真似ようとする傾向が、最初にあった階級差を解消してしまい、社会的ヒエラルキーの存在すなわち市民秩序を脅かしたのである。このような緊張関係は十六〜十七世紀のヨーロッパの至る所で感じられた。このような要求を規制するため、すなわち社会的ヒエラルキーを守るために「デコールム」——施主の地位にふさわしい建築装飾の形式——という概念が発達したのである。フランス革命の後デコールムへの関心は衰退する。おそらく社会階級を守るための役に立たないということが証明されたからだろう。二十世紀にも何がしかの意味を残していたデコールムだったが、それすらもラッチェンスのような建築家によって最後には一掃されてしまった。彼はブルジョワ向けの小住宅を貴族の大邸宅の様式で建設したのである。
2.3Bentham, J パノプティコンの計画
「厳格な規則性の感覚」を生み出した。一七八〇年代後半に練られたパノプティコンは、それがなければ秩序のない混沌とした世界のなかに、秩序ある関係を再建するべく計画された建築のもっとも明快な実例である。
4、都市の無秩序を制御すること
4.1誤解
都市には秩序があり、さらに規則正しい外観を与えられた建物・街路・広場をもつ都市は秩序をもっていると考えられていた。この考え方の芽はアルベルティのなかにある。しかし言っておかねばならないのは、外観が秩序づけられているように見える場、社会には秩序があり、規律正しいという仮説は、近代の誤謬の最たるもののひとつであったということだ。しかしながらこの誤謬はアルベルティからオスマン男爵、ダニエル・バンハムそして一九五〇年代から六〇年代のマスタープランナーに至るまで都市計画の唱道者たちによって当然のことと思われてきたのだ。たとえばサント・ペテルスブルクやパリの二十世紀の歴史は、物理的秩序をもつ場所は政治的に安定しているなどという主張に根拠などないことをただちに明らかにすることになる。
4.2 Venturi, R 『ラスベガス』
ほとんどの人々が混沌だとして退けている都市の光景も、注意深く見つめるならば実際にはある秩序が明らかになると主張しているのである。「おそらく卑俗で蔑視されている日常の景観からこそ、われわれは複雑で対立する秩序を引き出すことができる。その秩序はわれわれの建築に対して都市の全体としての根拠と活力となるに違いない」(10これが『ラス・ヴェガス』で追求されたテーマである。
5、無秩序への関心
5.1 Aalto, Aウォルフブルグ文化センターWolfsburg Cultural Centre
異なる各部に対してそれぞれ別個の幾何学システムが適応された建築として興味を引いた。ヴェンチューリはディミトリ・ポルフィリオスによる長さについて書かれた文章の中でこの建物についてコメントしている——けれども、多様な内部空間とは異なり、全体的な形式は強く統一されている。
5.2 Le Feabvre
ルフェーブルは近代世界で顕在化している還元主義的なあらゆる思考形式——ひとつの概念を特権視しすべてをその概念に適合させる傾向——に批判的であった。専門家が展開する還元モデルはとりわけ危険なものであった。なぜなら、ある実践の枠内にのみ適用されるとき、専門家が強制する秩序には自己正当化と自己目的化が伴うからである。「アーバニズムと建築とはこのよい例を与えてくれる。労働者階級はとりわけこのような『還元されたモデル』——空間・消費・いわゆる文化モデルも含む——の結果に苦しんでいるのである」。
5.3 Tschumi, B
チュミは「秩序」はまったく放棄すべきものだと主張したのではなく、たんに「秩序」には疑問の余地があると主張しただけだと。そして他の「秩序」を全く欠いているように思われる建築家——コープ・ヒンメルブラウやモーフォシス——がどれほど自分たちの建物のデザインと建設プロセスを秩序のない包括的なものにしようと努力していても、開放系ではあるにせよ「秩序」に驚く程強い執着をもっているのである。モーフォシスのトム・メインは、一方で建築はその不完全性によってモダン・カルチャーの流れを反映すべきだという考えを指示しながらも、他方では「われわれに重要なことは一般的で多義的な一貫性あるいは秩序を規定し、そのなかで創ることである」と主張するのである(8)。最近の建築評論家であるポール=アラン・ジョンソンは、「今日多くの建築家にとって、建築における秩序はあまりに周知のことなので、改めて関心を抱くほどではなくなっている。」(240)と述べている。しかしたとえ「秩序」が三〇年前に比べて語られることが少なくなったというのが事実だとしても、それは秩序が「あまりに周知のこと」になったからではまったくないのだ。むしろその理由は秩序について語ることがあまりに難しくなったことにある。なぜならば秩序が提起する問題はあまりに広くまた危ういものだからだ。もし建築が「秩序」を創造しないならば、もはや建築などまったく必要ないだろうし、環境の変化のプロセスはなすがままに任される。しかし建築がもし「秩序」の産出に関わっているのなら、自らの手には負えない広範な領域の影響を受けることになる——すなわち「文化」という名のもとで、経験が純化され、変形され、還元された形でわれわれに送り返されるプロセスのうちに建築も巻き込まれることになる。このような状況で初めて、なぜ建築家が「秩序」の問題について沈黙を選ぶのかがよく理解されるだろう。
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